日本人について思う

この時期、終戦の8月15日にいつも思うことである。

 

新聞記事を見ていると、この終戦時のことが書かれている。

特に、戦争美談としてではなく、第三者的視点で、

当時の戦争が犯した過ちを、行った行為の反省点が

多く挙げられている。

 

なぜ負けたのかという問いではなく、

 

なぜ、多くの尊い命を見殺しにしたのか。

なぜ、ここまで無駄な死を放置させたのか。

なぜ、国民を騙して戦地に出兵させ死に追いやったのか。

なぜ、終戦日の発表を遅らせ無駄に出兵させ死なせたのか。

なぜ、原爆によって多くの市民を死に追いやったのか。

なぜ、放送は戦争を煽る宣伝に載せられたのか。

 

と、多くの日本人の犠牲に対して、

日本人自体がうまく対応できなかったのかと問う。

そこでは、当時の政府の責任、天皇の責任とトップの為政者の

行為にそれを求めてくる。

 

国民はその指示に従っただけであり、騙されて従わされただけであるという。

何も知らなかった国民は、単に戦争をやりたかった一部の為政者の犠牲になった

とする。と同時にそれらを止められなかった個人の責任として問うてくる。

 

こんな発想で繰り返して、毎年この時期になると、戦争に対する自己反省が出てくる。

二度と同じ過ちを繰り返さないためにと、自己反省を繰り返しているのである。

考えてみれば、戦争を始めた当時の為政者も、なんの変哲もないも国民であり

独裁者ではないのである。民意を反映させているに過ぎないのである。

過ちを犯した側と、被害を被った側とのこの対立を作り上げて、どうして

毎年、無益な同じ過ちを繰り返しているのか不思議でならないのである。

 

また、辞めさせられなかった個人に向けて、全体の盛り上がりをどうして

止められなかったのか、なぜそちらに加担をしてしまったのかという無意味な

疑問を投げかけてくる。言葉を変えて洗脳などという行為にもなる。

長い歴史の中で、個は全体の中で生きているのであり、個の力によって

全体を生かしているのではない、思い込むことはできるが全体に生かされている

ということがわかっていないし、そのような疑問を作り上げるところに、

思考の限界があると言わざるを得ない。

 

自家撞着に陥ったマスコミ報道と、日本人の思考構造の無感覚さと浅はかな

言論に幻滅してしまうのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ツリーハガーについて

 

ツリーハガーを調べていたら、インド、ラジャスタン地方でのケージャリ大虐殺が出てきた。

 

ビシュノイ村の女性アムリッタデビウィという名の女性が自生のケージャリ木(プロソピスキネラリア)を守るために犠牲なった。それを発端に、363人が殺された。

 

また、1973年北インド、レム村ではチベット人女性の樹木保護チプコ運動につながってくる。  

民度の大小は、なんで判断しますか。

ある人からのfacebookを見ていると、民度と言う言葉がよくでてくる。

 

民度の低い連中を馬鹿にするような意味合いで使うのだが、富を持てるものは民度が高く、もてざるものは民度が低いと決めて使っていて、ほとんど貧富を示す差別的な使い方であった。

 

さて、私なりに考えてみると、民度の高低というとき、国民がその国の為政者をどこまでコントロールできているかで人々の思いの程度で使ってみたい。

 

すなわち、民度が高いとは、国民がその国の統治者をコントロールできているし、それとは逆に低いとは、統治者の言いなりで我慢を強いられていて反発できないことである、と判断してみたい。

 

今日の新聞記事の中に、香港の公務員が続々離職、海外へ移住とあった。

と、その背景には中国政府が香港市民に押し付ける香港国家安全維持法の施行があり、愛国者による香港統治の徹底「私は中国の香港政府公務員として、政府への忠誠を誓う」と書かれた宣誓書に署名を強いられるとの事情があった。

 

英国統治下を通じて、自由の雰囲気の中で生活してきた香港人にとっては、このことは耐え難いことだったのであろう。宣誓を強いられた公務員の警察官、教員などにその影響が出ている。

 

中国本土に対しても、自由を阻害させる法律の大変革は人民からの自由を奪い、愛国を強いることとそれを害するものたちへの強い取り締まりという、まさに国家方針への一方的従属を余儀なくさせるものである。

 

いやはや、ここまできたら日本では大変なことになるであろう。

しかし、中国では不思議なことに、ここまで人民はコケにされ無理難題を投げかけられても

大きな反動にはならない。

「まあいいか」ぐらいのところであろうか。生活が一番だし、国家方針には口出しはしない

と言うことであろう。

天安門事件の時もそうであった。中国では、いつも強権による力に対しては徹底抗戦はしない。「まあいいか」が働いているのであろう。

 

日本でこのようなことが起これば何人かの死人は必ず出る。お上に物申すものたちは、為政者が自分たちと同位置にあると見ているし、自分たちの生活統制と同時に国民の意思への許容を害することには徹底的に反発をする。

 

こんなことを考えていくと、今の中国共産党政権下での中国人民の民度は低いのではないかと考えてしまうのである。

 

 

 

 

 

幸せは何?

 

「訳あり激安マルヤス」での42時間密着NHK放送を見た。

 

この店に来ている、ある76才男性は独身。稼ぐのが目的で結婚しなかった。

生活だけでそれ以外のことを考える余裕もなかったらしい。

お金はたまったが、生活は質素なものだ。この激安店に来る生活が身についている。

そして、走り続けた結果、一人だけの生活。

家庭ができなかった。

今になって人生振り返れば、大事なのは家族だという。

 

また、こんな女性もいた。20才でシングルマザー。

8人家族という。これは大家族。

両親と二人の子供がいるらしい。

食事代だけでも大変らしく、倹約のため、この店に来ているらしい。

生活は大変だという。しかし、ここには、にぎやかな家族があった。

 

人生は、多様である。この多様さのなかで、皆が何を一番求めているのかだけではなく、

どのような生き方が人生にとって一番幸せなのか。

 

そこを社会は国は考えてやらねばなるまい。

 

 

 

 

 

ペルシャ絨毯』

 

 

・旅行は好きで、世界中いろんなところに行っていますが、

特にイスラム圏に行けば、エキゾチックなその風土や景色に加えて、絨毯をバザールに行って見ることがあります。

 

・絨毯といえば、イラン。歴史のあるペルシャ絨毯は有名です。イランの中でも地域によって絨毯の柄や色合いも違い、見て回るのは楽しいことです。

 

・少しは興味がありますので、たまに絨毯談義になることはありますが、そんな中、日本人の知り合いから一枚のペルシャ絨毯を紹介されました。

 

 それも、相当に大きい。

イランでも、大寺院や王宮殿でもなければ敷いていないような

大きいものです。当然、日本では見たことがありませんでした。

 

 

・それを、ちょっと紹介しますと、18mx12mとのこと。

イラン国、ナイン産のものらしい。素材は絹。専門家に聞いてみたら上等のものらしい。

 

 

 

・持ち主は、これを何とか処分したいとのことでした。

絨毯そのものには思い入れはなさそうで、あまり大きすぎて保管代もばかにならないとのことでした。

 

・だれか、この大きな絨毯を使えるような方はいますか?

 

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